当館の主の姓 大類は桓武天皇の流れをくむ
平安末期から戦国時代にかけて活躍した武蔵七党の一つ児玉党一族
桓武平氏良文流~大類武士団の末裔でございます

文献上に記載された『平姓大類系譜』によれば、“1718年”(享保3年)江戸初期、桓武平氏(穐屋貞正)初代が創業してから300有余年の歴史を誇る老舗の源泉湯宿でございます。

「桓武平氏良文流系譜圖」坂東八平氏・平姓大類系譜・家紋丸二揚羽蝶、九曜~家紋ノ由来 秩父氏ノ家紋大類氏ノ家紋トス 即本紋九曜紋、替紋ヲ丸二揚羽蝶紋トス『平姓大類系譜』によれば、秩父五郎行重(ちちぶごろう ゆきしげ)は、桓武平氏秩父重綱(ちちぶ しげつな)の養子となったことによって平姓を称したとされている。また、行重の兄には、川越次郎重隆、高山三郎重遠、江戸四郎重継らがいる。

【古の湯】(150年程前)の当湯屋(沐浴)名称『御所の湯』開湯以来“300有余年”変わることなく今に伝えて
おります。
湯の守り神に湯殿大権現、天正年間(1573~1592)をこの地に勧請し、当館敷地内に奉納されました。。。
※この画像は近隣の旅館に「無断転載」使用されてしまっておりますが、本家本元(原本)は『平姓大類系譜』
湯西川大類家 蔵に大切に保存されております。。。

江戸後期(170年前)に、日光東照宮の「名工」が28年かけて完成させた巨大民家で、入母屋萱ぶきの大屋根の高さは18メートル、正面玄関は総欅の唐破風造りになっておりました。大戸口を入ると四十坪の土間があり一尺五寸角の太い大黒柱や巨大な梁組みは豪壮で、古い様式の生活をしのばせます。

当家の邸宅は庭園にございました。邸宅の構造は、木造平屋建て、間口十三間、奥行き八間、総面積一〇八坪、茅葺入母屋造りです。庭園は二千坪。自然の地形を巧みに利用し、椎の古木がうっそうと茂る廻遊式庭園で建物との調和も見事にとられておりました。

明治初期12年(1879年)建造の旧館は、三十四代目主人の(喜左衛門)が、古き良き日本の社寺・伝統建築を大切にしつつ、西洋建築の技法や数寄屋造りが融合した意匠を凝らした擬洋風建築の建物を完成させました。

“弱敵を攻めるは卑怯なり”錦絵『平姓大類系譜』【湯西川大類家蔵】歴史に残る大類氏の三大合戦、平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)院近臣らの対立により発生した政変である。

【大類城】大類氏の居城、永禄3年(1560)の関東幕注文にも大類氏の名が見られる。大類氏が文献上に初めて登場するのは、武士の台頭した平安時代末期、保元・平治(1156~1160)の頃であるといわれていたが、その約100年前の文献にも記載がある。

【児玉党有道姓大類氏の出自】児玉党は平安時代の後期に現れた氏族で、平安時代末期から鎌倉時代にかけて下野国で割拠した武士団(武蔵七党)の一つである。その出自には諸説あるが、ここでは、上古より当地にあり下野国(しもつけのくに)の久自国造(くじのくにのみやつこ)であったという、有道宿禰(ありみちのすくね)の後裔という説をとる。

【平姓大類氏】武蔵七党の一つ、坂東桓武八平氏(ばんどうかんむはちへいし)の児玉党有道(ありみち)氏一族で、平安時代末期に秩父平太行重(ちちぶへいたゆきしげ)の子孫、大類五郎左衛門尉行義(おおるいごろうさえもんのじょうゆきよし)から始まる。

【平安時代~鎌倉時代】戦国期の下野国・上野国を駆けぬけた大類武士団『平治物語』上巻「下野の国には、大類(おほるゐ)太郎」とあり、平治元年(1159)12月、平治の乱に平清盛と戦い、敗れた源義朝配下の下野国武士に大類太郎がいた。

大類城(おおるいじょう) この城は永禄9年(1566)箕輪城が落城した後のもので、堀を含めた本丸の規模が東西約90m、南北約95mのほぼ方形の郭であること、二の丸は本丸を囲み、城の中央部よりやや東側に本丸を設けた複郭式の大規模な城であることなどが分かっている。

『武藏七黨系圖』の中で最初に大類氏が登場するのは、大類五郎左衛門尉行義(おおるいごろう さえもんのじょう ゆきよし)であり、行義は「大類太郎」より数十~百余年後(2~4世代後)の人物である。そして現存する諸史料によれば、この大類五郎左衛門尉行義以降の系譜が記録に残っている。

【南北朝時代~室町時代】『足利宰相関東下向宿次合戦』建武2年(1335)8月17日筥根(はこね)合戦(箱根・竹ノ下の戦い)での分捕高名に「下野国の大類五郎左衛門尉以下一党」と見え、武蔵七党の一つ児玉党一族の大類氏が足利方に加わり、北条時行軍と戦った。

【苦林野古戦場】(旧跡)上杉氏の関東復帰を阻止するべく、大類氏自らも挙兵し3000余騎を率いてこれを迎撃(川角大類善能寺)で両軍が激突した。大類氏も又馬を切られて、家臣の馬で戦い激烈を極めたが、上杉軍は遂に敗れて宇都宮に退いた。

【北条家朱印状】天正11年(1583)北条氏が下野国の大類城(中大類郷) を不入の地と定める。『下野国北条氏家臣表』に大類丹後守あり。児玉党大類氏の後裔にて、後に史料中に桓武平氏大類秩父重綱(ちちぶ しげつな)以下の名前が見られる。

【江戸時代】江戸幕府旗本藩士に大類氏がいた。大類次朗左衛門為久(江戸幕府旗本人名辞典)より。この系譜は次の通りである。慶長20年(1615)の大坂合戦(大坂夏の陣)に関連して、大類氏について次のような史書がある。「大坂御陣之砌手柄届候間、江戸より御城帰に而右之五人之衆申上候而知行の儀相違有間敷候、如此先之札申渡し申候間出之候、仍如件十月五日」として記されており、大類次朗左衛門為久(江戸幕府旗本藩士)となっている。

これまでの大類五郎左衛門尉行義(おおるいごろうさえもんのじょうゆきよし)の流れを、桓武平氏良文(よしふみ)流とする説があり「平姓大類系譜」(湯西川大類家蔵)によれば、天正年間(1573)坂東桓武八平氏(ばんどうかんむはちへいし)一門であり、秩父五郎行重(ちちぶごろうゆきしげ)以降、家紋は『丸に揚羽蝶紋』を正紋と伝えられている。